2015年1月14日水曜日

ヴェーベルン 消費される音楽


 20世紀以前の音楽は以前の時代に比べてその形を大きく変えた。楽器そのものの進化によっての変貌だけでなく、音楽を伝える手段も大幅に発達した。以前はコンサート会場でしか聞けなかった音楽が、テクノロジーの進化によってコンサート会場の数百人から数万人もの人々が聴衆となることができるようになる。

 しかしテクノロジーが進化し音楽が普及していくに反して、崇高で美しい音楽を正装し社交の場としての会場に赴き、その生の音を楽しむという伝統性を重んじる保守的傾向は存在していたと思う。本来、一回的な音楽がテクノロジーによって保存され複製され擦り切れるまで再生される。結果、音楽の希少性が下がり、良いものも悪いものも混在し氾濫してしまう。そういった流れを嘆き悲しむ人々も少なからずいたであろう。現在に至っても音楽の無数の氾濫は痛々しいものがある。音の大量生産、大量消費。ビジュアル重視の映像と共に、それなりに耳あたりが良ければそれなりに売れてしまう。無数の音楽が人々の美しい音楽への感覚を鈍らせてしまう。

 「芸術的音楽」という言葉を聴いて多くの人間が想像するのは、古典的なバッハやモーツァルトといった音楽だろう。現代の音楽を挙げる人は少ないと思う。しかし一見、重々しく感じられる「芸術的」といった単語も現代の音楽を除外する要素は含まれてはいない。けれども私たちは無意識的に現代の音楽を「芸術性」から自ら遠ざけてしまっている。それは私たち自身が大量の「それなり」の音楽に呑まれている自分や社会を理解しているからだ。街中を歩いていても音楽はどこからも流れでてきて私たちの耳に入る。それを当たり前だと受け入れ、黙認している。音楽自体の需要性が大幅に変化したのである。

 けれども音楽は心を癒し、汚れを流してくれる最高に美しい流動体だ。それが自分の必要とした時にいつでも聴けるようになったことはマイナスではない。朝起きて眩しい朝日を感じながら自分の好きな音楽を浴びる。そこは自分だけの世界になる。大量に録音され生産された音が、寝巻きのままの姿でも優劣問わずに自分の世界を創ってくれる。大量生産品が個人の音楽の所有を可能にし、その音楽が様々に形を変えて所有者の好きなときにいつでも聴けるコレクションとなる。

 では何が問題なのかと問われると、私は「音楽家」の不在だと思う。ヴェーベルンは1929年9月8日付けのクラーク宛の手紙に


「この鐘を使った小品は、ラジオで流したら特別に美しいものとなるはずです。私は、これが完璧なラジオ・ミュージックであると確信しています。」
(ヴェーベルン:西洋音楽史のプリズム、258

 
 と書き記している。音楽が録音され保存され、何回も何回も再生され消費されても、それによってその音楽の価値は下がったりはしない。ヴェーベルンは自分の音楽がラジオ・ミュージックとして芸術作品になることを確信していた。テクノロジーによって発信される音楽を自ら取り入れ、音楽性を削り取られるのではなく、逆に利用してより自分らしい音楽を創造していたのだ。彼のように20世紀に進化を遂げたあらゆるテクノロジーを利用して、それによってより洗練された音楽を作り出す音楽家はなかなか現れない。それだけヴェーベルンは稀有な存在なのだろう。けれども現代においても、音楽を完成させて発信するという意思は発信する側に芽生えないとはいえない。溢れる未完成の音楽に溺れて、飽き飽きした人々の逆流が、また新しいヴェーベルン的テクノロジーの利用方法を模索していくのではないのかと思う。



《参考文献》
『ヴェーベルン:西洋音楽史のプリズム』岡部真一郎、春秋社、2004
『20世紀音楽の構図 : 同時代性の論理』矢野暢、音楽之友社、1992
『ポスト・テクノ(ロジー)ミュージック-拡散する「音楽」、解体する「人間」』
久保田晃弘(その他)、大村書店、2001

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