2015年1月22日木曜日

画家が描くユディトの女性像


 旧約聖書のユディト記に登場するユダヤの女性ユディトを主題とした絵画は、数多く存在する。その中でもカラヴァッジョの『ホロフェルネスの首を斬るユーディット』とグスタフ・クリムトの『ユディトⅠ』を例に挙げて論じたいと思う。

 エルサレム近郊のベツリアに住む美しい女性ユディトは、夫を日射病で亡くして未亡人となった。彼女は美しく魅力的で多くの財産を所有していたが、神に対して強い信仰心をもっていた。アッシリアの王に派遣されたホロフェルネスの軍がユダヤへ攻め入りベツリアという町を囲み、町の指導者オアジは降伏を決意するが、ベツリアに住んでいたユディトはオアジと民を励まして、神への信頼を訴えた。ユディトは作戦を考え、攻めてきたアッシリアの将軍ホロフェルネスの陣地のアッシリア側に寝返ったふりをして侵入し、ベツリア攻略の名案を授けた。ユディトをすっかり信用したホロフェルネスは彼女のために宴会を開き、用意された御馳走を平らげると眠り込んでしまう。ユディトは女中を下がらせると、側に掛けてあった剣を取り、神の援助を求めながら二振りするとホロフェルネスの首がゴロリと落ちた。それを女中に持たせた袋に入れると、何くわぬ顔でベツリアに戻った。イスラエル軍は大いに喜び、その頭を城壁に曝した。一方アッシリア軍は将軍を欠いて混乱し、敵の前にあえなく退散したのだった。そしてユディトは悠々と祖国に帰還する。

 まず、カラヴァッジオの作品、『ホロフェルネスの首を斬るユーディット』は1598年頃に描かれた。カラヴァッジオは『聖マタイの殉教』や『聖マタイのお召し』など多くの宗教画を描いた。理想化され描かれる宗教画に対し、現実に起こりうる要因を事細かに描き出し、リアリズムを徹底した。

 イタリアのバロック期最大の巨匠カラヴァッジオは、ユディトが伝統的に暴君に打ち勝つ民衆の勝利のシンボルとされていたことをよく知っていた。『ユディト』を主題とした絵は、ルーカス・クラーナハの絵を例に挙げるように、ホロフェルネスが首を切り落とされた後のシーンが多く描かれていた。ユダヤ民族のユディトは英雄的な女性の規範であり、女性らしさを投影させるには実にふさわしかった。ユディトは見せかけの愛で、ユダヤ民族を脅すホロフェルネスを虜にし、酔いつぶさせて首をはねた。画家と注文主は物語の一場面よりも、美しき女が上方へ指し伸ばされた剣と、かつて女性を愛でた者の首とともに描くほうを好んだからである。

 暴君であるホロフェルネスが、知的で勇敢な女性に破滅させられる。そんな主題をカラヴァッジオはホロフェルネスが虐殺される場面を取り上げてメロドラマとして表現した。この絵は前面に描かれる人物像が立体的で三次元的であるが、空間的には二次元的である。それはユディトの剣を持つ右腕によく現れている。ホロフェルネスの斬られた首は半分にまで達している。そうすると身体を退けながらユディトはかなりの力と速さで首を切り裂いたことになる。そしてユディトの手は既に伸びきっているので、その場合描き出されるユディトの手の位置は画面上もう少し奥になっているはずだ。この時期のカラヴァッジオはまだ立体的表現からの三次元空間の構成には成功していないように思える。しかし今までの数多く描かれたユディトを取り上げた絵画の中でも、滅多に描かれることの無いまさに今ホロフェルネスの首を斬るという、クライマックスの瞬間を描き出すことには成功している。

 ユディトは顔を顰めながら嫌そうに、ホロフェルネスの髪を掴んでその首を切り裂いている。ベッドの上のホロフェルネスは泥酔して裸で抵抗することができずに、残っている最後の意識と力でベッドのシートを握り締め硬直し、声にできない悲痛の声を出しているようだ。老婆は目を見開きその残虐なシーンの傍観者としてユディトとはまた別の残虐性をあらわしている。これら三人の精神状態を停止して描き出すことによって個々の独立した、また交差した感情を浮かび上がらせている。ホロフェルネスの首が切り取られた瞬間、彼らの感情は別のものに変わるだろう。ユディトは任務を終えて自分が切り取ったホロフェルネスの首を見て、異様な満足感に満たされるかもしれない。老婆はユディトが切り取った首を袋に入れるためにすぐさま駆け寄り自分の袋に首を入れて早くこの場を去ろうと焦慮するかもしれない。首を切り取られたホロフェルネスは身体と頭を別々にされ、その命と共にかつての栄光は消え去り残るのは恐怖と混乱の残像だけである。

 この『ユディト』は一見、乱暴的な動的な人物像を描いた作品に見えるがカラヴァッジオが描いた「この瞬間」の彼らの心的な感情には乱暴的で残虐な感情には染められていない。カラヴァッジオはこの『ユディト』の主題が女性の男性への勝利の象徴として取り上げられることは知っていた。しかしカラヴァッジオはユディトの勝利の図だけではなく、光と闇のコントラストによってユディトの勝利とホロフェルネスの敗北を偏り無く平等に描き出している。ユディトは女性としてホロフェルネスを誘惑した。首を切り取った次の瞬間には男性を刈り取った勝利の女性としての感情を蘇らせるかもしれない。けれどもカラヴァッジョのユディトは肉体的にも感情的にもその心的描写は男性的である。


 次に20世紀の画家、グスタフ・クリムトの『ユディトⅠ』を例に挙げてみる。グスタフ・クリムトは保守的主義者から常に激しい論争の対象とされていたが、クリムト率いるウィーン分離派の美術家たちは、それを美術の近代化を目指す自分たちの勲章とした。クリムトの絵は、イコン全盛期の時代のような金色を輝かせる。彼の絵は、洗礼された形態と、敏感で音楽的なリズムを備えた、静的ではあるが、流れるような時間空間が存在する。

 1901年に製作された『ユディトⅠ』は当時の本やカタログの中では奇妙なことに『サロメ』と題されていた。ユディトはユダヤ教の女性として一般に肯定的評価が与えられていたので、「ユディトとホロフェルネス」という銘がはっきりと目に付くように額縁上に刻まれているにもかかわらず、この退廃的な雰囲気にふさわしくないと考えられたためか長い間サロメという名で呼ばれ、叙述され、容認されてきたのだった。人々が題名を違えるのは、間違っていると知りながら無意識のうちに押さえつけて意識にのぼらないようにしてしまっているのではないか、精神分析用語でいう抑圧が働いたのではないかと推測されている。この抑圧が状況の否認につながり、画題を変更させることになったのだ。

 世紀の転換期に好まれたテーマ、ファム・ファタルは、人を威嚇する存在とみなされ、これは、その時代に女性の社会的な立場が大きく変化していったことに起因している。男の社会的立場の絶対性に疑問を投げかける動きが出始め、それは決して経済的ないし政治的な変化だけでなく、時を同じくして始まった職業および政治面における女性解放の動きもこれに大きな影響を及ぼした。クリムトはそうした男女の役割の転換を分析して描写しようとはしなかった。彼は女性が男性を魂までも支配できる位置にまで達したことを寓話の中に複雑に絡め描いたのである。

 実際に、クリムトの絵には殺人行為を直接に示唆するものはない。誤ってその金色に輝く光中にホロフェルネスの首を見落としてしまいそうになる。ホロフェルネスの首はユディトの描写に是非とも必要な、けれどもただの付属物として、画面からはみ出してしまっている。クリムトは神話を物語ることをせず、ただユディトの肖像を描いている。首斬りというユディトは残虐な行為を厭うところからきているのではなく、むしろユディトが性の欲望のみを顕示するファム・ファタルとして描写されているから厭われたのである。彼女の魅惑的な目はうっとりとこちら側に見落とされている。ホロフェルネスの首を得て、彼女に内在していた性的で能動的な欲望が覚醒された。ユディトの目は次に手にする獲物を物色しているようだ。

 ユディトは強い意志を持った崇高な女性である。しかしこの二つの絵画を比べると、その力強さは違う色を示している。カラヴァッジョのユディトは自身が決断した使命でもって、ホロフェルネスの首を斬る。腕の太さや筋肉の現れは男性の腕のようである。そこには女性らしさの象徴として描かれたユディトは存在しない。ユディトの存在はホロフェルネスの叫びとともに光が当てられるのだ。

 けれどもクリムトが描いたユディトは、彼女のみの世界で構成されている。吸ってしまったエキスの残骸にはもう必要性を感じられなくなったユディトは、それを傍らへ追いやっている。彼女は既にホロフェルネスの首を斬った瞬間のユディトとは別の女性へ変貌している。あまりにも過激な性表現の露呈。それにも関わらず、我々はユディトの美しさによって翻弄され、その危険性に気づくことができない。画面に隠された彼女の左手にはホロフェルネスの首を斬った剣が握られているのかもしれない。

 それでも二つの絵に描かれたユディトは美しい。支配しようとする一瞬の恐怖。支配したものの光悦の微笑。どちらもユディトが持つ内在的であった蕾が咲き乱れたものであるからだと思う。


カラヴァッジョ《ホロフェルネスの首を斬るユーディット1598年頃、カンヴァス・油彩、144.2×195cm、国立古代美術館、ローマ


ルーカス・クラーナハ(父)《ホロフェルネスの首をもつユディト》1530年頃、油彩・板、87×56cm、ウィーン、美術史美術館


グスタブ・クリムト《ユディトⅠ》1901年、油彩・カンヴァス、153×133cmウィーン、オーストリア美術館


《参考文献》
諸川春樹『西洋絵画の主題物語』美術出版社、1997.3-1997.560
柳澤保雄『ヨーロッパ美術を読む旅』トラベルジャーナル、1997.3-199812
三輪福松『西洋美術の主題と物語』朝日新聞社、199699
ベルトルト・ヒンツ『ルーカス・クラーナハ』パルコ美術新書、1997.2107
岡田温司『カラヴァッジョ鑑』人文書院、2001.10260
ゲルベルト・フロドゥル『クリムト』中央公論社、199468
 

0 件のコメント:

コメントを投稿