2015年3月12日木曜日

エドゥアール・マネが描く19世紀パリ

 マネが生きた19世紀は、ヨーロッパを中心として世界中が産業革命という大きな変革を経験した時代であった。それまでは動物の力や風力、水力など自然の力に頼っていた機械が、外熱機関の発明によって一挙に巨大なエネルギーを利用できるようになり、工場が次々と建設された。

 1814年にイギリスのスティーブンソンによって蒸気機関車が発明され、蒸気機関車がヨーロッパ中を走り回るようになると、人々の暮らしも大きく変わっていった。都市と都市、都市と農村の間の距離は交通の発達により時間的にも心理的にも短縮され、次第に人々は仕事を求めて大都市に集まってくるようになった。都市は繁栄の一途を辿り、街路にはガス燈が設けられて夜を華やかに彩り、カフェやミュージック・ホールやボード遊びなど、さまざまな遊び場が出現したのであった。

 しかしこのように発展していく都市の明るい部分とは対照的に、工場に働く労働者たちは、狭くて衛生状態の酷く悪い住居に詰め込まれて健康を損なっていたのだった。人々が一斉に都市に流れ込み、人口が増大するのに対して、都市の生活環境は依然として変化が無く、昔のままの劣悪なものだったからである。19世紀の都市とそれを構成する市民社会に共通した二重性は、産業革命をもっとも早く経験したロンドンや、これに続いたパリなどの大都市にとりわけ顕著だった。そして、マネがその作品を多く描いたのは、まさにこの変革の最中の<光と陰>とのコントラストがもっとも鮮やかになった時代のパリだったのだ。

 そういった光と影のパリを、マネはそのままの姿で、目の前にすぎていく現実をありのままに描いていった。生まれついてのブルジョワであったマネは、ごく自然に帝政時代の軽薄な快楽追求の風潮を受けているかのように見える。しかしマネの作品を注意深く見ると、ただの風俗画家ではないことがわかるはずだ。事実、マネはプールヴァールの散歩を楽しむ傍らで貧しい人たち住む町の中を歩き回っていたのだった。年老いたヴァイオリン弾きやギターを片手に酒場を歩き回る流しの歌い手、道端で芸を披露する大道芸人や寒空の中を寂しげに歩く浮浪者、あるいはみすぼらしい身なりの子供たちなど<陰の部分>のパリの住人たちを描いた初期のマネの作品からは、目の前の現実に描き出そうとするマネのパリに対する目線を感じ取ることができる。

 マネはよく画中の人物モデルに街中で遭遇した人物をアトリエにつれてきてポーズをさせている。『Le vieux musicien』の中心人物の老音楽師もギュヨ街に彼のアトリエがあった付近のプチ・ポローニュの空き地あたりから見つけてきたのだろうと言われている。というよりも、この絵の情景に近い場面に遭遇して、そこからこの絵は発想されたと考えるべきかもしれない。明らかにマネには一貫して現実世界の中から題材を選んでこようという意図があった。

 マネには自分を取り巻く現実世界の中から題材を得るのと他に、古典絵画の構図を真似て描くパターンが見られた。『Le vieux musicien』に関してはベラスケスの『Los Borrachos』の版画から構図を借りてきている。ベラスケスの『Los Borrachos』は神話的絵画形式に基づいて酒神であるバッカスを描いていて、この作品からは画面全体から酔った男たちの笑い声が聞こえてきそうである。この絵に対するマネの関心の高さを立証していることが分かるのは、このベラスケスの『Los Borrachos』の版画が『Portrait d'Emile Zola』という、マネが友人のゾラに感謝の意味を込めて制作した絵の背景に『Olympia』と共に書き込まれているからである。しかし、この絵とは対照的に構図を借りてきているといってもマネの『Le vieux musicien』はベラスケスの『Los Borrachos』から感じる作品全体の愉快な空気とは似つかない。配置された統一感のない人物たちからはひっそりとした話し声すら聞こえないのである。

 マネの作品は、なんらかの感情を高らかに歌い上げることは少なく、一種の超然たる姿勢を崩そうとはしない。家族や友人にかこまれた親密で楽しげな情景を描いても人々の笑いが溢れてきそうなにぎやかな場所を描いても、マネはあらゆる事柄に対してある一定の心理的距離感を保とうとしているかのようだ。

 孤独、疎外といった華やかさの中に隠れ潜む陰の部分をふっと浮かび上がらせ、その一瞬を描きだしている。マネはパリの社会に潜むさまざまな不安、相反する光と陰の二重性を本当に知っていた芸術家であったのだ。

Le vieux musician
Edouard Manet
1862
Oil on canvas 187×248cm
The National Gallery of Art, Washington

Los Borrachos
Diego Velazquez
1628-29
Oil on canvas 318×276
Museo del Prado, Madrid

Portrait d'Emile Zola
Edouard Manet
1868
Oil on canvas 146×114cm
Musee d'Orsay, Paris

 《参考文献》
伊藤廉ほか『印象派時代・マネ・モネ・ルノワール・ドガ : アトリエから外光のなかへ』
平凡社、1960
三浦篤『近代芸術家の表象 : マネ、ファンタン=ラトゥールと1860年代のフランス絵画』
東京大学出版、2006
Michael Fried 『Manet's modernism, or, The face of painting in the 1860s』
London : University of Chicago Press , 1996

2015年2月9日月曜日

ビートルズ 『ALL you need is love』 和訳



ビートルズの名曲『ALL you need is love』。
この唄を作詞したジョン・レノンは世界中に強い影響を与え、死後においても彼の哲学は色褪せることがありません。
私はその知名度、時には奇抜な行動から、平和を唱え人々を導く指導者のような像を抱いていました。
しかし、改めて彼の歌詞を読むと、彼は間違いなく真のアーティストに違いありません。
未だに人々を惹きつけて止まない、その理由が分かります。

『ALL you need is love』は、日本人には難解な英語から、
長きに渡り間違った解釈をされていたそうです。例えば


There's nothing you can do that can't be done.
できないことは、どうやったってできない。


「不可能なものは人間がどうやったって不可能である」としているのです。
しかし、これは明らかに間違っています。
私は、英語については正直詳しくありませんが、ジョン・レノンの哲学やメッセージは理解できます。 
ここでは「何事においても、人間の想いが及ばないことはない」という気持ちを込めているはずです。
つまり、「可能」の意味で訳さなければいけません。
また、二重否定=肯定になりますが、わかりやすさを求めて肯定的な訳にすると、彼の歌詞に散りばめられた美しさが失われてしまいます。例えば以下のようにです。


There's nothing you can do that can't be done.
 なんだってできるんだよ。


さらに、多くの訳を拝見すると「You」つまり「君」という訳を省略しています。
和訳する際には二人称は省略するというのは理解できるのですが、
彼は「Everyone」をあえて「You」にすることで、唄の中で「君」に語りかけるような作用を与え、
間接的に「Everyone」すなわち「皆」に語りかけているのです。
この微細な技工を和訳だからといって削いではいけません。

この唄のメッセージは、映画「I am Sam(アイ・アム・サム)」を観ると理解できると思います。
父と娘が一緒にいたいと思っていても、それが叶わない。
苦悩する父のサムに、娘のルーシーが言うのです。「ALL you need is love」と。



Writer(s):John Lennon/Paul McCartney
Author:John Lennon
Lead vocal:John Lennon
Single by The Beatles
Released:7 July 1967

Love, love, love.
Love, love, love.
Love, love, love.

There's nothing you can do that can't be done.
君ができないことは、もともとできないことなんだよ。

Nothing you can sing that can't be sung.
君が歌えない唄は、もともと歌うことができないんだよ。

Nothing you can say, but you can learn how to play the game,
しゃべることができなくても、ゲームの仕方を学ぶことはできるよ。

It's easy.
簡単なことさ。


There's nothing you can make that can't be made.
君が作れないものは、もともと作ることができないんだよ。

No one you can save that can't be saved.
君が守れないものは、もともと守れないんだよ。

Nothing you can do but you can learn how to be you in time?
何もできなくたって、いつか君が君らしくいられる術は分かるでしょ?

It's easy.
簡単なことさ。


(だからね、すべては叶うんだよ。ではなんで今、それができないんだろう。君には、何が足りないんだろう)

All you need is love, all you need is love,
君に必要なものは、愛だよ。

All you need is love, love,
love is all you need.
君に必要なものは、愛、愛だよ。
愛こそが、君が必要としているものなんだよ。


Love, love, love.
Love, love, love.
Love, love, love.

All you need is love, all you need is love,
君に必要なものは、愛だよ。

All you need is love, love,
love is all you need.
君に必要なものは、愛、愛だよ。
愛こそが、君が必要としているものなんだよ。


There's nothing you can know that isn't known.
君が知り得ないものは、もともと知ることができないんだよ。

Nothing you can see that isn't shown.
君が見えないものは、もともと見ることができないんだよ。

Nowhere you can be that isn't where you're meant to be.
君のいられない場所なんて、どこにもないんだよ。

It's easy.
簡単なことさ。


All you need is love, all you need is love,
君に必要なものは、愛だよ。

All you need is love, love,
love is all you need.
君に必要なものは、愛、愛だよ。
愛こそが、君が必要としているものなんだよ。

All you need is love (all together now)
All you need is love (everybody)
All you need is love, love, love is all you need.

2015年1月28日水曜日

レオノール・フィニ 『手術Ⅰ』


 男性の髪を整える女性と、女性にすっかり自分自身のヘアスタイルを委ねているかのような男性がいる。髪を整えるという日常的な行為が一つの儀式のように描かれている。この二人の姿からは、旧約聖書に由来する「サムソンとデリラ」の主題が思い起こされる。髪によって超人的な強さを与えられたナジル人のサムソンはペリシテ人のデリラを愛し、怪力の秘密をデリラに明かしてしまう。サムソンが髪の毛を切るとデリラが弱くなってしまうという秘密を知ったデリラは、ペリシテ人の指導者に買収されて眠っているサムソンの髪を切って怪力を奪ってしまう。このサムソンとデリラの物語は、絵画において、デリラがサムソンの髪を切る場面として繰り返し描かれてきた。サムソンの怪力の秘密に象徴されるように髪、あるいはひげも含めた体毛は男性の力を象徴する。この主題には、女性によってその力を奪われてしまうことへの恐怖、あるいは女性の危険性に対する警告の意味があった。神がアダムとエヴァを創造し、二人が罪を犯してからエヴァの原罪への弾劾は終わることがない。エヴァは男を誘惑する魔性の女としてデリラやサロメ、メドューサと、様々に姿を変えて現れてくる。

 ここでは、サムソンとデリラの主題にお馴染みの、はさみで髪を切る場面がはっきりと描かれているわけではない。しかし、白い布をまとい、女性に従順なこの男性の姿はサムソンそのものである。レオノール・フィニは無防備な男性と、その男性を支配している女性という主題を伝統的な女性の描き方を弾性への表現に塗り替え、このように儀式的に描いたり、神話や伝統のような人物に仕立てたりして繰り返し描く。フィニは自身が生きている社会が男性中心的な社会であることを強く意識していた。

性の解放によって当時のブルジョワ社会の価値観の転覆を目指したシュルレアルスムにおいては、エロティズムは重要なテーマであり、男性シュルレアリストたちは、性を男性の欲望とともに、その対象となる女性イメージとして様々に表現している。想像力の源としての女性賛美、社会における女性の伝統的な役割の否定、あるいは女性の自由な性への参画といったものが男性シュルレアリストたちによって主張はされていたが、結局、実際の作品においては、女性に対する伝統的な価値観を基盤に、女性への所有欲求や女性に対する暴力的なエロスが表現されていた。何かしらの思想の変化は見られても表現されるものは以前のものと同等であったのだ。その中でフィニは女性が男性を支配するかのような作品を次々に制作する。それは女性の男性への反撃かのように思える。

しかし、このように男性に対し一方的な女性の支配力を見せ付けるのでは、男性が女性の魔性の内面を描くことと何も変わりはない。詰まるところ女性の恐ろしさを男性が描くか、女性自身が描くかの違いでしかなくなってしまう。これでは男性の女性への固定概念を何も払拭することができていない。行うことは男性シュルレアリストたちやそれ以前の画家たちと違わないのである。レオノール・フィニは男性優位社会の中で長い時代に渡って男性が女性に対して抱いてきた魔性の女性の図像、「ファム・ファタル」を覆すことがなきなかったのである。


 この絵は見るからにエロティカルである。二人の男女に秘密の行いがあったか、それともこれから行われるのかは疑いようがない。エロティカルな空間の中で女性が男性を支配することが本当にフィニの目指したことなのだろうか。

 男性中心的な社会、父権制の社会構造を認識していたフィニは、それにとらわれることなく、またそれに対する女性中心的な社会を求めたわけでもないのだ。男性、女性を問わず、人間の両性具有的なあり方を目指していたのである。そして、その為に、既成の価値観をひっくり返すことを試みたのである。あまりにもエロティカルな表現はこの時代の社会にアイロニカルな眼差しを投げ捨てて微笑する。それは新しい言語体系の創造である。そしてまた、時に彼女が描き出す力図強い女性支配的描写は、社会の中や、そして一見純粋であろう所に潜在する長く尾を引く男性優位社会の現実性を知らしめる為なのである。男性を一方的に否定したり、かといって女性を高く優位に立たせたりするような社会を目指すのではなく、それらを超越した世界を彼女が夢のような幻想的世界に存在するものとして描き出しているのではないだろうか。しかし、その幻想的世界は、幻想性を含みつつもしっかりとした意識の中で創り出されているのである。ここで描かれているのは「女性の支配」であるが、それは、意識改革への「手術」なのである。
手術Ⅰ
1939年
100×65cm
油彩・キャンヴァス
個人蔵



《参考文献》
レオノル・フィニ-の仮面 / A.P.ド・マンディアルグ[] ; 生田耕作訳. -- 奢覇都館, 1993.
シュルレアリスムと性 / グザヴィエル・ゴーチエ著 ; 三好郁朗訳. -- 平凡社, 2005.8.
ダダ・シュルレアリスムの時代 / 塚原史著. -- 筑摩書房, 2003.9. -- (ちくま学芸文庫).
Leonor Fini. -- Galerie Dionne, 1997.


2015年1月27日火曜日

一望監視装置 パノプティコン


 権利として同時に財産として考えられる自由を奪いことになる身体刑は、19世紀以降には刑罰の抑圧の主要な対象として消滅する。そして処罰の目標は身体から精神へと変わっていく。

 ベンサムが理想監獄として描いた「一望監視装置」はそうした精神的刑罰を成し遂げる。その建物は、周囲が円環状になっており、二つの窓をもち、中央には囚人を監視するための窓のついた塔が立っており、鎧戸と仕切り壁を付け、外から中は見えないようになっている。

 フーコーが分析するには、この一望監視方式によって独房の数と同じだけの小さな舞台が出来上がり、役者はただ一人のみで完全に個人化され絶えず可視的状態に置かれることとなる。それにより囚人は情報伝達を行う主体にはなれず、ある情報のための客体になることによって、取り締まりやすくなり、そして見つめられるままに孤立性を帯びる。

主要な効果としては権力の行使者とは別のある独立した権力関係を設立し維持する機械仕掛けにより、閉じ込められる者が自らその維持者たるある権力的状況の中に組み込まれることだ。 

この見る、見られるという状況において、囚人は常に可視的な存在として扱われ実際監視されているのか分からない常態に置かれる。一方、看守は不可視なまなざしによって、実際には囚人を監視する必要もなくなる。この視線の非対称性を囚人に承知させるだけで十分であり、権力が自動化され儀式や祭事が無用になり誰でも代理が務まる。そして囚人は没個人化し、その個人的は捕獲される。
 
 そして囚人は自ら看守の肩代わりをして自己を監視する主体となり、又自分に監視され行為する主体となって自分で肩代わりした命令に服従する従順な身体を持ち、自分自らが服従強制の本源となる。

こうした「近代的主体」という二重の主体は資本主義とは不可分な存在として、現在は病院、学校そして工場などで経済的にも活用され、至る所で「一望監視装置」のような管理、統制された社会システムが見られる。