2015年1月20日火曜日

ブルネレスキ フィレンツェ大聖堂 完成までの経緯



フィレンツェの街に存在する美しい建築物たち。個々が芸術の街に、芸術品として独自の存在感を放っている。フィレンツェ大聖堂もまた、その中の魅力的な建物の中の一つである。

アルノルフォ・ディ・カンピオの設計から始まった新しいフィレンツェ大聖堂の造営は、バシリカ式建築を基本として14世紀の100年間、断続的に進行し、身廊部の基礎工事はほぼ完了した。後陣部はすでにアルノルフォの時代に、八角形の基本形が提起され、14世紀半ば以降この形を踏襲しながら図面を拡張している。アルノルフォはサン・ジョバンニの工事にも参画した経験があり、そのときに多角形プランを学んだと思われる。

 しかし15世紀に入り、後陣のクーポラの建造にかかった時、その直径があまりにも大きく、従来の方式では架構が困難となった。未完成のまま残されてきたゴシック様式のフィレンツェ大聖堂は手をつけられないまま放置されていた。そこに登場したのが、彫刻家から建築家転進したブルネレスキであった。彫刻家を目指し、1401年に開催されたフィレンツェ大聖堂附属のサン・ジョバンニ洗礼堂のブロンズ門扉の制作者決定のためのコンクールに参加をした。羅沙地組合主催によるこのコンクールは、市民層の坮頭やその民主的・進歩的な美術理念を極端に示す事件だった。しかしブルネレスキは最終選考で同僚のギベルディに敗れてしまう。洗礼堂浮彫コンクールでギベルディに敗れたブルネレスキは、その後ローマに赴き、パンテオンなどの古代建築の測量・研究を数年にわたり従事し、クーポラ架構の新案を提出した。

 1420年には彼の造営プランが採用されて、長期に及ぶ工事の末に独創的な二重構造による大円蓋を完成させ、1436年には献堂式が行われた。新たに打ち出した彼の方式は、クーポラの内部空間を重視しながら、巨大な屋根を支える画期的な工夫に満ちていた。その要点は、まず、内殻と外殻と外殻を持つ二重のアーチ形の構造であり、次に基部に帯鉄とボトルで締め付けた木材のリングを使用したこと、さらに円蓋頂上部の軽量化である。これらの画期的な構造により、バシリカ式を基本にした聖堂はクーポラを冠した巨大な八角形の集中式の後陣をもつことになり、これによりルネサンス建築が本格的に幕を開けることとなった。
 
 フィレンツェ大聖堂はサンタ・マリア・デル・フィオーレという美しい呼称を持つようになる。中世の建物によくある、雰囲気を醸し出す効果や飾りはいっさい排除され、外観における上昇性とダイナミックな形は計算された均衡によって張り詰めた空間の中に溶け合っている。明快で理論的な構造、白色のリブと赤色の三角片との対立、各面の接合部における計算された角度、こうしたあらゆる均衡の関係によりクーポラはあたかも宙に浮かんでいるかのように、あるいはフィレンツェの街の上に吊るされているかのように見える。そして、はるか上方にあって常に光に照らされているクーポラの三角片の赤いレンガとリブの白い大理石は、視覚的な効果のみならず、構造的、さらに実用的な機能をもち、フィレンツェ大聖堂を取り囲む外部空間との協調性を侵すことなくフィレンツェの街の景観にすっぽりとはめ込まれているのだ。
 
 歴史を持つ美術の街に美術品かのように点在する建物は、決して個別に主張し存在するのではなく、異なる川が合流し、一つの川となるかの如く、街の空間との相互関係を大切にしながら滑らかに溶け合っている。そしてその中で、フィレンツェ大聖堂はフィレンツェの空に高く伸び上がり、上方から街に新しい息吹を与えている。



《参考文献》
『フィレンツェ歴史散歩』中嶋浩郎・中嶋しのぶ、白水社、2006.9
『イタリアの都市国家』D.ウェーリー、平凡社、1971
『天才建築家ブルネレスキ : フィレンツェ・花のドームはいかにして建設されたか』
ロス・キング、東京書籍、2002.7

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