2015年1月27日火曜日

一望監視装置 パノプティコン


 権利として同時に財産として考えられる自由を奪いことになる身体刑は、19世紀以降には刑罰の抑圧の主要な対象として消滅する。そして処罰の目標は身体から精神へと変わっていく。

 ベンサムが理想監獄として描いた「一望監視装置」はそうした精神的刑罰を成し遂げる。その建物は、周囲が円環状になっており、二つの窓をもち、中央には囚人を監視するための窓のついた塔が立っており、鎧戸と仕切り壁を付け、外から中は見えないようになっている。

 フーコーが分析するには、この一望監視方式によって独房の数と同じだけの小さな舞台が出来上がり、役者はただ一人のみで完全に個人化され絶えず可視的状態に置かれることとなる。それにより囚人は情報伝達を行う主体にはなれず、ある情報のための客体になることによって、取り締まりやすくなり、そして見つめられるままに孤立性を帯びる。

主要な効果としては権力の行使者とは別のある独立した権力関係を設立し維持する機械仕掛けにより、閉じ込められる者が自らその維持者たるある権力的状況の中に組み込まれることだ。 

この見る、見られるという状況において、囚人は常に可視的な存在として扱われ実際監視されているのか分からない常態に置かれる。一方、看守は不可視なまなざしによって、実際には囚人を監視する必要もなくなる。この視線の非対称性を囚人に承知させるだけで十分であり、権力が自動化され儀式や祭事が無用になり誰でも代理が務まる。そして囚人は没個人化し、その個人的は捕獲される。
 
 そして囚人は自ら看守の肩代わりをして自己を監視する主体となり、又自分に監視され行為する主体となって自分で肩代わりした命令に服従する従順な身体を持ち、自分自らが服従強制の本源となる。

こうした「近代的主体」という二重の主体は資本主義とは不可分な存在として、現在は病院、学校そして工場などで経済的にも活用され、至る所で「一望監視装置」のような管理、統制された社会システムが見られる。

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