2015年1月16日金曜日

大野一雄 轟く魂


 大野一雄氏の舞踏は映像でしか拝見したことがないのだけれど、映像の中で舞踏を拝見すると、その底知れぬ力強さと繊細な表現力にいつも涙が出てしまう。いま生きているという事実を、生の神秘性と崇高さを教え説いているような舞いに、涙を流さずにはいられない。いつも不思議な感覚を身に覚える。

 今回のシンポジウムでは大野氏と他方から繋がる著名な方々のお話を伺い、舞踏家としての実態を映像の中の姿とはまた別に、あらゆる角度から再確認、再発見することができた。

 大野氏に関して耳にした沢山のお話の中で、笠井 叡氏に話していただいた大野氏との会話に心を打たれた。笠井氏が言うには大野氏は「今までの人生で私は悪徳の限りを尽くした」と言ったという。けれども笠井氏は「ここまで優しい人がいるのか。ここまで人間は優しくていいのだろうか」と大野氏の人柄について話してくれた。それを聴いて人間の二面性について考えさせられた。善と悪は相反するものなのに、大野氏はこの二つを持ち合わせ、自分自身それをしっかりと自覚している。究極に優しい人が悪徳を尽くす限りの黒い心を持つと言う。何故だろうか。

演劇評論家の渡辺 保氏が言う古典演技に於いて演じ手の身体が魂を入れる器とするならば、舞踏は踊り主の人生をそのまま反映し、観客は踊り手が演じる役柄と共に踊り主の人間性そのものも一緒に受け取るものであると思う。舞踏では踊る身体は器としてではなく入り込んだ魂もろとも相まって舞台の上で踊り狂う。

大野氏の舞踏が地響きのように空間と共鳴し、けれども悲しいくらいに優しさを舞台にこぼしていくのは、大野氏の長い人生に起きた出来事が、一様にまっさらな人間にさせなかったからなのだろうか。長い大きな海を泳ぐ魚のような旅路が、深い海底の暗さも海に反射する太陽の光も同じ量だけ、その身体に宿させたからだろうか。自分の中に住み着く悪を知ることで底知れぬ優しさを生み出すことができるのかもしれない。

二つの相反する善と悪の感情が舞踏に普遍的な人間性を色濃く浮き上がらせて、そしてその根深く色濃い片鱗を少しずつ我々は受け取ることができる。大野氏が生きた100年を、自分の知らない怒涛の歴史の片鱗を五感で感じることができる。

それは本当に感覚的なもので、身体の奥底で生み出される感覚で、色も形も分からない。表現しがたいものだ。だから私はいつも泣いてしまうのかもしれない。それが感覚的なものであるが故に。感覚的なものであるからこそ。

0 件のコメント:

コメントを投稿