2014年12月26日金曜日

あなたを

あなたに毛布を掛けたいわ。
こんな寒い日に、身体が冷えたら風邪をひいてしまうもの。

あなたとゆっくりお話しがしたい。
猫が塀を登った後の後ろ姿がおかしくて、それをあなたに伝えたいわ。

私、あなたに触れたいの。
その肌のあたたかさを確かめてみたいの。

私、あなたを殺したい。
そっと首に手をかけて、ゆっくりと絞め殺したいの。

いっそ、私を殺してくれても構わないわ。
何も言わずに、温度を奪ってくれたっていいのよ。


だんだんと、あなたとの距離が縮まって、
触れるか触れないかの距離になったら
そこで時が止めればいいと願うわ。

きっと触れてしまったら、もう自分を抑えきれないもの。
あなたをこの手に仕舞いこんで、消えてなくなるまで紡いでいたいの。

2014年12月25日木曜日

アルフォンス・ドーデ 『プチ・ショーズ ある少年の物語』


 家の没落によって一家離散になるまでにダニエルは、工場という遊び場で自身の冒険心を成長させる。そこでダニエルはロビンソン・クルーソーになった。前向きで、それでいて激しい感情は溢れ出し、どんなに辛いことに出くわしても自分を振るい立たせ新しい道のりを歩もうとする人間に。ダニエルには多くの不幸が降りかかる。兄の死や、苛め、人の裏切り、借金など。涙を流しながら、それでも挫けそうな足を踏み出す。平坦ではない道。逃げ出したい気持ち。しかし、逃げ出す場所もない。寒くとも、暖めてくれる者も人も近くにはいない。

 ダニエルが生徒監督としてサルランドの中学校へ赴任した先に出会うバムバンにリヨン時代の自分を見つける場面がある。嫌われた自分を自ら嫌ってバムバンを排した。はげちょろの小さなブラウス。自分が着ていたものと同じブラウス。それは、チビ公と呼ばれ、同級生から軽蔑され、教師に嫌われたかつての自分だった。どこか心の奥底で消せることができなかったトラウマにバムバンが手を差し伸べ引きあげてくれた。「人生における無上の幸福は自分が愛されているという確信である」というヴィクトル・ユーゴーの言葉があるが、人間は自分が愛されて初めて自分を愛せる。愛されない自分をどうして自分自身が愛することができよう。少年時代に人から嫌われた記憶は痛々しい傷を残しなかなか癒えてはくれない。バムバンを愛することで、やっと過去の自分を、少年の頃の自分を全て愛して、そしてダニエルは心の幸せを得ることができた。

 ダニエルを支え励ました母さんジャックは、決してダニエルを見放さなかった。ダニエルの才能を見出し、ダニエル自身も自分の詩の才を育て上げる。愛に魅了し女性によって翻弄されて暗闇に放りだされるダニエルを、そこから救い出してくれたのは母さんジャックだった。


世の中には幸福は一つしかない、他人を幸福にすること。(301項1行目)


 一人では幸せは得ることはできない。もしそれが「幸せ」と感じているならそれは空虚なものだろう。挫折し、逃げ出した子供を愛しい想いで見つけ出した母さんジャックは、ダニエルを包み込んだ。

 人間は弱い。今は逃げ出そうと思えば逃げ出せるし、隠れようと思えば簡単にできる。ダニエルは逃げ出してしまったが、けして周りのものを捨て去って逃げたのではない。家族への想いは彼の少年時代の悲しい体験から、人一倍大きいものだと思う。どうにかしなければいけない、けれどもどうにもできない。苦しみの念に溺れながらも戦う。そんな感情に暖かい水を注いでくれるのは、出会って来た沢山の愛すべき人だ。「黒い瞳」にジェルマール神父。母さんジャックは勿論のことムッシュウ・エーセットやマダム・エーセット。

 ダニエルの少年時代はダニエルを冒険家に育て上げた。喜びも悲しみも沢山味わって必死に舵をとり大海原へと航海する。最後に成功を収めたダニエルは、続いて未来を航海し進んでいく。ずっと先は分からないけれど、それは少年だったダニエルの時から代わらないもの。かつて少年時代に見つけたもので前へ、未来へ進んでいくのだろうと思う。

溝口健二 『祇園の姉妹』


 堕落した木綿問屋の主人、古澤を慕いお世話をする梅吉。客としての男に対して特別な感情を抱くことを卑下するおもちゃとは正反対である。19歳の山田五十鈴演じるおもちゃは、そのお人形のような可愛さと成熟したような大人の女性のしなやかな動きで男達を魅了させていく。劇中に登場する女を買う男たちの外見が均一化されて、皆が同じような服装と顔つきをし「商品を買う男」としての存在がおもちゃたちを取り囲んでいる。おもちゃは商品としての自分を理解し、そんな男たちに自分を売り込む。梅吉のように決して心まで売らず、逆に男を手玉に取って支配しようとする。

 しかし結局は男たちに翻弄され、上手いように身動きが取れずに保吉に乗せられた車の中で、これ又均一化された「商品を買う男」が登場し、「女は男言うとおりにすればいい」と、男が女たちに抱く本音をおもちゃに言い放つのだ。

 人間というものは頭で現実を理解していても、それを目の前に急に提示されるとショックを受けてしまうことがある。商品としての女の自分を知っていたし、知った上で自分を売り込んでいた。けれども男の冷酷な言葉は、心に深い傷をつけた。男なんて所詮女に現を抜かす生き物と思っていたおもちゃも、そこまで人間を見限れる年齢に達していない。だからこそ男の優しさに漬け込み、媚ることができた。しかし無意識に信じていた男の優しさという部分を、冷酷な言葉によってざっくりと切り落とされてしまい、自分が所詮この男たちに買われる物なのだということを確認してしまうのだ。

 年端も行かぬ女の子が、どうにかして道を切り開こうとする。苦しい状況の中で、更に苦しい現実を突きつけられるおもちゃは、反発するように車を飛び降りる。ベッドの上で涙を流しながら「こんな仕事なかったいいのに」と叫ぶ。行き場のない感情が空をみつめる目線と重なる。本当はしたくはない、けれどもしなくてはいけない。相反した感情がおもちゃを締め付け、その感情の矛先はどこにもいくことができず、やはり空を漂うように終わってしまう。

 男に心も身も捧げても裏切られ、自己の商品価値を知り売買を推し進めても切り捨てられる。社会の必要性の中に溶け込もうとしても浮き出てしまう芸妓の世界で生きるおもちゃの悲痛な涙が、身動きが取れないおもちゃの救いを求める手のように感じた。



監督・原著:溝口健二
出演
山田五十鈴、梅村蓉子

モノトーンの四角


人はいつから心に暖色の物質を持つのか。

モノトーンの四角に雨水が一滴。
さて、何色になった?

モノトーンの四角の上で小鳥が歌を。
さて、何色になった?

ひとつのかたまり


ひとつのかたまりが離れてしまうまえに

そのまま流れてしまえばいいのに。

青く澄んだ空に吸い込まれて

そのまま溶けてしまえばいいのに。

ことの決まりがちれぢれにしてしまう。

日常がとどまりを許さない。

だから今は目を瞑って、あの時間を漂いゆく。

想い出

想い出がほしい。

君との想い出のために大きな箱を用意した。
小さなものまで詰め込んで
僕はそれを大切にしまっていた。
ときどき引っ張り出しては、少しずつ増えるそれを眺めていた。

そして彼女が去って、僕には箱だけが残った。
箱はたくさんの想い出を抱えきれなくなって
いくつかこぼれ落ちていた。
僕は床に落ちた想い出までも拾い上げて
口いっぱいに詰め込んだ。
それが彼女の一部だと信じて、貪り食べた。

箱の中身を全部平らげ
僕のお腹は何倍にも膨れて上がった。
重力が僕を引きずり込み
僕はそのまま床に倒れこんだ。
大きく膨れたお腹で前すら見えない。
目の前はただの暗闇。

想い出なんていらない。
想い出なんて。

アリストテレス 『詩学』



 悲劇に於いての苦難(パトス)から浄化(カタルシス)への一連の流れは、まず演じ手が装飾を纏いリアリズム的な外観を創造した上で、幾つかの出来事の組み合わせ、つまり節を劇的に組み合わせることにより果たすことができる行為の再現であって、そこには人物の性格は然程重要ではないとある。これらと現代のあらゆる諸芸術とを照らし合わせて考察してみると、そこに大きな違いが見えてくる。

近代の物語の様態はアリストテレスが述べる悲劇の構成要素の必要性とは大分違って、その世界を動かす主たる登場人物の性格に重きを置かれる傾向がある。例えばチャップリンが行う喜劇映画などの笑いの要素は、その大部分はチャップリンが演じる人物像のコミカルな性格に起因しているし、野田秀樹が演出する「パンドラの鐘」に於いては舞台に登場する多くの人物像にそれぞれ違ったユニークな特色が見られ、個々の人物が笑いを誘う身なりや発言を繰り返している。蜷川幸雄が演出した「パンドラの鐘」と比較して思い出すと、野田秀樹が演出した「パンドラの鐘」は物語のストーリーよりも個々の面白いキャラクターの方が印象深いことが判る。

悲劇の分野でも現代はやはり主体となる人物像がどれだけ観客に愛され、人物像の愛嬌効果によって如何にして観客の感情を揺さぶるかに重点が置かれているように思える。そうすると然程にわたって物語事態に揺さぶりをかけずに済んでしまう。つまり節と節の組み合わせに技巧を凝らさなくても大衆に受け入れられる悲劇が完成してしまうのだ。日本で人気のあるイギリスの悲劇の童話「フランダースの犬」は主人公の少年ネロとパトラッシュの純真さと直向さなどが結末の死と共に涙を誘うが、キャラクター自身の印象が濃ければ濃いほど、月日が経つにつれて次第に主体が物語から独立し、ネロやパトラッシュといった登場人物が、物語空間とは別の次元で愛されるようになる。このれは節と節の組み合わせの欠如ゆえに起こる現象なのだと思う。

しかしこれら現代の受け入れられる喜劇の様態は人々のカタルシスを導くことができない。詩学の第六章に書かれるこの文章。


同情と恐怖を引き起こすところの経過を介して、この種の一連の行為における苦難(パトス)の浄化(カタルシス)を果たそうとするところのものである。(29頁14行)


登場人物の性格が強く物語に浮き出ると観客は自分を物語内に投影しづらくなる。それは観客が物語を主人公のみが行う別次元の空間の出来事と捉え、自己投影することなく涙を誘うこととなるからだ。その結果、同情と恐怖は引き起こすことができるが、苦難(パトス)と浄化(カタルシス)の作用効果は排除されてしまう。一方ソポクレスの「オイディプス王」の登場する主人公オイディプス、その他の人物像にはこれといった強い人格性は見られない。「オイディプス王」の物語の世界観は、時代は異なるものの苦悩を体感する人間図式の形態は現代の我々と差異はない。故に物語全体を通して観客は苦悩(パトス)と浄化(カタルシス)を果たそうとする無意識下の行為が行われる。


何故ならば、悲劇とは人間を再現するものではなく、出来事のつながりとしての行為と人生とを再現するものなるがゆえであり、また、幸福も不幸も行為に在するため、再現の課題は何らかの行為なのであって、人間をあらわす道徳的性質なのではないから でもある。(31頁11行)


 節、性格、語法、思想、外観、音楽、これら要素が悲劇に多様性を導きだす。その組み合わせ次第で劇そのものが崇高なになるか陳腐になるか左右される。しかし上記に引用した文章を読むと悲劇の行為は登場人物の性格には起因するものではない。悲しみを帯びる過去のひとときの人生を甦らせるのは、主人公を苦しめる痛烈な出来事と、それを悪循環へ陥れる節の巧みな組み合わせである。その出来事の節々に観客は自己に起きた過去の出来事との対比を諮るのだ。悲劇、それを享受した際の観客の疑似体験によって自己に眠る既存の経験が意識化に浮上し再度苦難(パトス)を感じ、その苦しみからの脱却として浄化(カタルシス)を試みることができる。

 悲劇は人々に悲しみを味合わせるが、その悲しみ故に美しさはよりいっそう引き立つ。自己に起きた悲劇はなるべく心のどこかに埋めて隠し、そんなものなかったかのように振舞う。または目をそらし触れないようにするだろう。しかし劇によって与えられた悲劇は存在する悲しみの再確認を可能にして、傍観者であるからこそ、悲劇の中から未知の美しさを見出せる。そうやって我々は何度も悲劇を味わう。それは当事者では知ることのできない美しさだからだ。組み立てられた節と節により我々の中で行われるカタルシスは、外側で起こる外的な悲劇だからこそ成し遂げられる作用なのだと思う。

2014年12月24日水曜日

美術を想う


  美術を想うと、私はゆりかごに揺られているような気持ちになる。汚れた心もすべてさらけだし、純粋無垢の赤子のように身をゆだねてしまう。

  まだ私が幼い頃に手にしたルノワールの画集には、画家のこんな言葉が記されていた。「世の中には悲しいことや辛いことがたくさんある。だから私は幸せな絵を描きたい」と。その言葉のとおり、彼の絵には溢れんばかりの幸福が描かれていた。豊かな色彩に、まばゆい光。美術に心を奪われた瞬間だった。あの時に感じた温もりの種が花を咲かせ、今こうして美術を想う導きとなったのだと思う。

  ルノワールは幸せの側面だけを描いたが、人間は幸せだけを見て生きてはいけない。どうこうしても、やはり世の中には幸せと悲しみが混在する。善と悪。光と影。対峙する両面を、美術は穏やかに、時に痛烈に示す。そして、そこにも入らない小さな日常のひとこまさえも、描き出してくれる。


  洞窟壁画の昔から、人類はあらゆる美を描いてきた。それらは、時と共に多様に変化し、さまざまな形で表象されている。それはまるで、『鳥獣人物戯画』の蛙と兎のように、あちらこちらに飛び回り、決して手におさまることはない。なぜなら、人間は表現することを止めないからだ。雪舟がこぼした涙で小さな鼠を描いたように、自己を、この世界を、描き出さずにはいられない。

  そして、美術の変化と同じように、私の心の模様がどのように変化しようとも、美術は、いつだって包み込んでくれた。純粋さも汚れも、すべて受け入れてくれた。そう、美術は私の慰めであった。私の帰する場所である。等伯の静寂に腰を下ろし、フェルメールの青に抱かれて、マティスの赤に恋をする。その世界にくるまって、私はいつまでも揺られていたいと思う。

追いかけっこ

追いかけっこの誘いに僕は二つ返事で承諾した。
蛙君から誘ってくれるなんて信じられないことだ。
僕はなんだかくらくらしてしまった。
蛙君が虫役になった。僕は蛙君を捕まえなければならない。
合図と同時に蛙君はぴょーんと飛び跳ねた。

僕はどうにかして捕まえようと一生懸命に走った。
だけれども駆けっこの得意な蛙君には僕なんて到底敵わない。
どうしたって蛙君には追いつけない。
そんなことわかっていたのに
断って嫌われることを恐れていたんだ。
だけど僕と蛙君とじゃ違いすぎる。
だってちっとも追いつかないじゃないか。
後姿しかみれないじゃないか。
僕はだんだん自分が惨めになってきて、哀れになってきて、

どうしようもなく涙が溢れてきた。

身体も心も苦しくなって、僕はその場に立ち止まった。
すると蛙君は僕の方へ駆け寄ってきてくれた。


「大丈夫かい? 少し走りすぎてしまったみたいだね」

僕は蛙君に泣いていることを気づかれたくなくて、俯いたまま何も言えなかった。

「ちょっとここいらで休憩しようか。今日は本当に天気がいいなぁ。こんなジメジメした日には大声で歌いたくなってしまうんだよ。少し僕の歌声を聴いていくかい?」

僕は俯いたまま2回うなずいた。
蛙君は僕の横に座り、背筋をピンッと伸ばすといつものように歌い始めた。
静まり返った沼地に蛙君の歌声だけが響いている。
それが僕の心臓の音と共鳴しているようでなんだか心地がよかった。
僕は気が付かれないよう蛙君の横顔をそっと覗き見た。

うん。蛙君はやっぱりかっこいい。
僕は頑張ってよかったなと思った。

友達



我が部屋に友人が住んでおります。
友と云えども人間ではありません。猫でもありません。
猫は私の妹、娘、息子であって友達の立場にはありません。
では誰かと申しますと、それは1匹の蜘蛛であります。
今まさに私の後ろの壁でお寛ぎをして頂いていますのがその彼です。

彼と出会ったのは2年ほど前でしょうか。
突然私の部屋に住み着くようになりました。
蜘蛛の寿命は最長3年と言われていますので同じ蜘蛛なのは間違いありません。

未だに彼の名前は知りません。
一応私の名は伝えたことがあるのですが
彼は依然として名前を呼んだことはありません。
蜘蛛には名前という概念が無いのかもしれません。
勝手に名前をつけるのは失礼にあたりますので迷った挙句にやめました。
名前が無いということも案外悪くはないように思えてきます。

彼と一緒にいて一番気をつけることは、掃除機をかけるときです。
なにせとても小さく繊細な身体をしておりますので
大きく凶暴な掃除機でその身体を吸ってしまわないように細心の注意をはらいます。
彼も私の心遣いを理解してくれているのか、掃除の際にはどこかに身を隠してくれています。
掃除が終わってから数時間後に何もなかったかのように現れたときには
「掃除は終わりましたよ。どうぞお寛ぎくださいませ」と話しかけます。
すると彼は気紛れにちょっとした蜘蛛的日常話をしてくれるのです。
大概は毎日の食事事情ですが1分もしないうちに話すのをやめてしまいます。
そしてゆったりと前足を動かしながら空を見つめます。

2年の月日が経過しても我々の関係は猶の事揺るぐことがありません。
私は彼にいつまでもここにいてもらいたいと思っています。
でも無理強いはしません。その事についても伝えることはないでしょう。
私は彼の気紛れさが好きなのですから。
全ては彼の気の赴くままに。