2014年2月25日火曜日

初めてのgifアニメ制作 02

次は5コマに挑戦です。
なんとか仕組みがわかってきたぞ。
レイヤーの意味もわかってきた。

我が家の犬、ベジの欠伸を5コマ流しでご覧ください。

ぽかぽか陽気で眠い~ムニャムニャ

2014年2月24日月曜日

初めてのgifアニメ制作 01

初めてgifアニメ制作を試みました。
Photoshipはほとんど使えないので、ウェブサイトで検索して
手探りでチャレンジしたら偶然出来たような代物です。

うちのトンちゃんという猫の目の動きがとても可愛かったので
どうしても2コマのアニメを作りたかったのです。




                                                     おめめキョロキョロ








梅崎春生 『蜆』


  人を疑い、自分を疑い、混じり合うその二つに、道徳という男が信じて所有してきたものが、異臭を放ちながら重圧を加える。人間に対する欺瞞をどうにかして 脱ぎ取ろうと、男は初めて出会った男に外套を手渡す。しかし、それは男自身が自ら裏切ることとなる。他人に偽善で与えた外套、それは自分に凍え死ぬような 寒さと妬みを与えただけで、温かみや、満足は与えてくれなかった。真面目に生き、人間が築いてきた秩序と規則に忠実に従ってきた男が見たのは、人間同士が 互いの腹を探り、罵倒し、傷つけ合うものだった。誰かが不幸になることで、誰かが幸せを得る。男はそれを、揺らいでいた気持ちを外套で確認してしまったの だ。はっきりと。電車から落ちた男を想い、男は己の矛盾した、濁り始めた感情に冷たく笑う。男が所有していた外套は、己惚れであって、自分が潜在的に己に 備わっているものだと信じていたものだった。それは所詮「所有」するものでしかなく、いつでも売り払い、酒にだって変えられるものでしかないのだ。

 
私達は、皆、外套を着ている。けれどもそれは、偽物だということを欺くものになり得る。そんな人間に退屈し、飽きてしまう人もいるだろう。外套を脱ぎ捨て て、虚無心を代わりに身にまとうことだってできる。淋しく鳴く蜆は、男に幸福の総量を気がつかせた。けれども、その声にはもっとたくさんの、様々な醜悪的 な声以外の声も、存在すると思う。

 
外套を脱がずに、身にまとったまま、この世の中の偽物や醜悪に埋もれて、他の蜆と一緒に鳴いてみてはどうだろうか。外套は寒い夜には、温もりを与えてくれると思うから。

2014年2月21日金曜日

谷崎潤一郎 『刺青』


 美しい者が、他のあらゆるものを包括し、その存在を誇示していた時代の清吉の娘への欲望が、内面から注ぎ込む魂の念によって官能的に描かれている。美は美 として何にも脅かされることはなく、そしてその美に取り憑かれたように己の命を塞ぎ込もうとする清吉の姿は、彼という者の手によって一人の娘が血を帯び、 苦しみの声を上げて男を快楽という地獄に落とし入れるような女に変えることに、深く息を潜んでいた喜びを表す。娘が真の「己」を絵に見たように、清吉も娘 の刺青を身にまとった姿に「己」の心の真髄を見たのだろう。

 
『「愚」と云う貴い徳』とは、ある種の濁りない、例えば刺青を着たこの娘のように、自分自身が持つことを許された刺青と己が放つ美を、何によっても駆逐さ れることなく留まり、流動することがないと信じる心なのではないだろうか。そして、清吉は自分の芸術的刺青は大きな美を生むことができると信じていた。こ ういた人々の恍惚なる徳を、今では「愚」として捉えられてしまうようなものを、谷崎は奇妙にも美しく、色鮮やかに描き、針が肉に痛みを与えて描くように、 この作品にも同じような痛みを与えるような「美」をもたせたのだと思う。その時代の人々が持つ意識の形態を刺青師と一人の女を通して描いたのだと感じた。

2014年2月20日木曜日

上田秋成 雨月物語 『蛇性の婬』



私ははじめ、この蛇が不憫でならないと思った。性の淫らな妖怪であるということは理解できる。しかし、一人の女性としてこの蛇の気持を汲み取ると、その 真っ直ぐな想いが猶、哀れに感じて仕方がない。蛇は豊雄と出会った頃から決して心を変えることはなかったのに反して、竹助は契りを交わしたのにも関わらず 心を変えてしまった。確かに、妖怪を愛するということはありえない話だと思うが、一度は愛した女なのだから、どこかにその愛情の破片が残るものではないの だろうか。富子と初めて暮らす日に、蛇が竹助を想い慕ったことをちらちらと思い出してはいるが、あまり気に留めていない様子であった。

 
しかし、私は思い返る。こういうものが、人が長い間繰り返してきた情の一つなのだと。二つある感情は決して交わることはなく、どこかでそれてしまったり、 切れてしまったりする。蛇が感じていた情は、人間の女が抱く情と同じかどうかは分からないが、どんなに強く思っても、相手が受け止めてくれなければ、その 気持は届くことがなく、ただ妖怪の執念としか人々に捉えられることがない。相手を心から想うなら、どんなに自分の気持ちが強くとも、それを畳んでそっと胸 にしまっておかなければならないときもある。蛇は竹助を想うばかり、自分の想いに逆に捕らわれてしまったのだ。
 
 
「豊雄は命恙なしとなんかんかたりつたへける」という一文で終わるのだが、どうしてこれを語り伝えたのだろうと考える。蛇は恐ろしい言葉をあびせ、豊雄を 苦しめた。苦しめたが、私はこの蛇の健気な姿にも想い移る。けれども、最後のこの一文で、豊雄の命は助かったということが、この物語を安定の地に置いてい る。蛇を、真女児を、自分の手で殺したしまった豊雄が無事であたったということが、そうしてしまった、そうするしかなかった豊雄自身を救っているように感 じる。そして、読んでいる私達をも、この文は救っているように感じる。もしかしたら、豊雄は蛇に呪い殺されているかもしれないし、蛇との契りを守ったかも しれない。しかし、そうなると私達の心はたちまち崩れ落ち、不安な想いに捕らわれてしまうだろう。
 
 
蛇が抱いた気持ちも、豊雄の想いも、二つ並べて丸くおさめることはできない。それだけ、「想う」ということは難しいことだ。豊雄の命が助かったということ。それはこの蛇と豊雄が交わしたであろう情のやりとりの、悲しくも終わりの形なのだと思う。