2015年1月28日水曜日

レオノール・フィニ 『手術Ⅰ』


 男性の髪を整える女性と、女性にすっかり自分自身のヘアスタイルを委ねているかのような男性がいる。髪を整えるという日常的な行為が一つの儀式のように描かれている。この二人の姿からは、旧約聖書に由来する「サムソンとデリラ」の主題が思い起こされる。髪によって超人的な強さを与えられたナジル人のサムソンはペリシテ人のデリラを愛し、怪力の秘密をデリラに明かしてしまう。サムソンが髪の毛を切るとデリラが弱くなってしまうという秘密を知ったデリラは、ペリシテ人の指導者に買収されて眠っているサムソンの髪を切って怪力を奪ってしまう。このサムソンとデリラの物語は、絵画において、デリラがサムソンの髪を切る場面として繰り返し描かれてきた。サムソンの怪力の秘密に象徴されるように髪、あるいはひげも含めた体毛は男性の力を象徴する。この主題には、女性によってその力を奪われてしまうことへの恐怖、あるいは女性の危険性に対する警告の意味があった。神がアダムとエヴァを創造し、二人が罪を犯してからエヴァの原罪への弾劾は終わることがない。エヴァは男を誘惑する魔性の女としてデリラやサロメ、メドューサと、様々に姿を変えて現れてくる。

 ここでは、サムソンとデリラの主題にお馴染みの、はさみで髪を切る場面がはっきりと描かれているわけではない。しかし、白い布をまとい、女性に従順なこの男性の姿はサムソンそのものである。レオノール・フィニは無防備な男性と、その男性を支配している女性という主題を伝統的な女性の描き方を弾性への表現に塗り替え、このように儀式的に描いたり、神話や伝統のような人物に仕立てたりして繰り返し描く。フィニは自身が生きている社会が男性中心的な社会であることを強く意識していた。

性の解放によって当時のブルジョワ社会の価値観の転覆を目指したシュルレアルスムにおいては、エロティズムは重要なテーマであり、男性シュルレアリストたちは、性を男性の欲望とともに、その対象となる女性イメージとして様々に表現している。想像力の源としての女性賛美、社会における女性の伝統的な役割の否定、あるいは女性の自由な性への参画といったものが男性シュルレアリストたちによって主張はされていたが、結局、実際の作品においては、女性に対する伝統的な価値観を基盤に、女性への所有欲求や女性に対する暴力的なエロスが表現されていた。何かしらの思想の変化は見られても表現されるものは以前のものと同等であったのだ。その中でフィニは女性が男性を支配するかのような作品を次々に制作する。それは女性の男性への反撃かのように思える。

しかし、このように男性に対し一方的な女性の支配力を見せ付けるのでは、男性が女性の魔性の内面を描くことと何も変わりはない。詰まるところ女性の恐ろしさを男性が描くか、女性自身が描くかの違いでしかなくなってしまう。これでは男性の女性への固定概念を何も払拭することができていない。行うことは男性シュルレアリストたちやそれ以前の画家たちと違わないのである。レオノール・フィニは男性優位社会の中で長い時代に渡って男性が女性に対して抱いてきた魔性の女性の図像、「ファム・ファタル」を覆すことがなきなかったのである。


 この絵は見るからにエロティカルである。二人の男女に秘密の行いがあったか、それともこれから行われるのかは疑いようがない。エロティカルな空間の中で女性が男性を支配することが本当にフィニの目指したことなのだろうか。

 男性中心的な社会、父権制の社会構造を認識していたフィニは、それにとらわれることなく、またそれに対する女性中心的な社会を求めたわけでもないのだ。男性、女性を問わず、人間の両性具有的なあり方を目指していたのである。そして、その為に、既成の価値観をひっくり返すことを試みたのである。あまりにもエロティカルな表現はこの時代の社会にアイロニカルな眼差しを投げ捨てて微笑する。それは新しい言語体系の創造である。そしてまた、時に彼女が描き出す力図強い女性支配的描写は、社会の中や、そして一見純粋であろう所に潜在する長く尾を引く男性優位社会の現実性を知らしめる為なのである。男性を一方的に否定したり、かといって女性を高く優位に立たせたりするような社会を目指すのではなく、それらを超越した世界を彼女が夢のような幻想的世界に存在するものとして描き出しているのではないだろうか。しかし、その幻想的世界は、幻想性を含みつつもしっかりとした意識の中で創り出されているのである。ここで描かれているのは「女性の支配」であるが、それは、意識改革への「手術」なのである。
手術Ⅰ
1939年
100×65cm
油彩・キャンヴァス
個人蔵



《参考文献》
レオノル・フィニ-の仮面 / A.P.ド・マンディアルグ[] ; 生田耕作訳. -- 奢覇都館, 1993.
シュルレアリスムと性 / グザヴィエル・ゴーチエ著 ; 三好郁朗訳. -- 平凡社, 2005.8.
ダダ・シュルレアリスムの時代 / 塚原史著. -- 筑摩書房, 2003.9. -- (ちくま学芸文庫).
Leonor Fini. -- Galerie Dionne, 1997.


2015年1月27日火曜日

一望監視装置 パノプティコン


 権利として同時に財産として考えられる自由を奪いことになる身体刑は、19世紀以降には刑罰の抑圧の主要な対象として消滅する。そして処罰の目標は身体から精神へと変わっていく。

 ベンサムが理想監獄として描いた「一望監視装置」はそうした精神的刑罰を成し遂げる。その建物は、周囲が円環状になっており、二つの窓をもち、中央には囚人を監視するための窓のついた塔が立っており、鎧戸と仕切り壁を付け、外から中は見えないようになっている。

 フーコーが分析するには、この一望監視方式によって独房の数と同じだけの小さな舞台が出来上がり、役者はただ一人のみで完全に個人化され絶えず可視的状態に置かれることとなる。それにより囚人は情報伝達を行う主体にはなれず、ある情報のための客体になることによって、取り締まりやすくなり、そして見つめられるままに孤立性を帯びる。

主要な効果としては権力の行使者とは別のある独立した権力関係を設立し維持する機械仕掛けにより、閉じ込められる者が自らその維持者たるある権力的状況の中に組み込まれることだ。 

この見る、見られるという状況において、囚人は常に可視的な存在として扱われ実際監視されているのか分からない常態に置かれる。一方、看守は不可視なまなざしによって、実際には囚人を監視する必要もなくなる。この視線の非対称性を囚人に承知させるだけで十分であり、権力が自動化され儀式や祭事が無用になり誰でも代理が務まる。そして囚人は没個人化し、その個人的は捕獲される。
 
 そして囚人は自ら看守の肩代わりをして自己を監視する主体となり、又自分に監視され行為する主体となって自分で肩代わりした命令に服従する従順な身体を持ち、自分自らが服従強制の本源となる。

こうした「近代的主体」という二重の主体は資本主義とは不可分な存在として、現在は病院、学校そして工場などで経済的にも活用され、至る所で「一望監視装置」のような管理、統制された社会システムが見られる。