2015年1月15日木曜日

『トリスタンとイズー』から見る愛の姿


 モロアの森でのトリスタンとイズーは、自然の中で二人きりの愛のみで生きていた。階級や称号や洋服まで、何もかも剥ぎ取られてしまう。そんな苦しみ悶えた二人に愛が力を与え、浄化してくれている。ただそこに、目の前に愛する人がいて傍にいて優しく触れていてくれさえすれば、それだけで幸福でいられる。愛を糧として生きた二人を一番表している場面だと思う。

 愛だけで恋人たちが固く繋がれる状態でいることは容易なことではない。何か些細な誤解や、小さな障害によって易々と濁り、崩れてしまうことがある。愛は目に見えないから、片方がその愛の形を心配してもう片方を疑ってしまうと、その愛は一気に消えてなくなってしまうことだってある。互いの心が不信なく、二人が持ち合う愛に手を触れていなければならない。モロアの森でのトリスタンとイズーには愛に疑いがなかった。互いの存在を否定するような言葉は無く、苦しいと思うことさえなかった。この森には二人の愛を汚すようなものが、何一つ存在しなかった。私がこの物語の中で最も美しいと思う場面は、モロアの森で季節を掻い潜り、静寂の中に寄り添う恋人たちだ。


 かなたの繁みの小屋の中では、トリスタンが妃をしっかりと抱いて、花まき散らした地面の上で眠っていた。(130項2行目)


 この場面の美しさは、言葉をそのまま掬い取って想像するだけで物語における恋人たちの姿を象徴しているかのように感じる。トリスタンはイズーをしっかりと抱きしめ、イズーはその胸に純白な心をあずける。言葉は漂うだけでいい。言葉を交わさなくとも魂がそれを受け取り、無意識の中でそっとしまいこむ。ただ静かに眠るように目を閉じて、温もりを感じられればいい。撒き散らされた色とりどりの花の上で、互いの寝息を頼りに眠りにつく。

 これほどまでの信頼は、媚薬によって齎されたものではない。何も与えなくても、与えられなくとも感じる確かな感触がある。それは二人だけが感じ取れるもの。二人の身体の下に敷かれた花々は、恋人たちを祝福し、癒し慰めている。その花を生んだ森は、包むように恋人たちを守っている。彼らはモロアの森の一部となって小鳥と共に歌を唄う。

 二人の愛は突然だった。しかしその愛は死後まで続く。運命で繋がれた愛。そんな愛の物語に人々は憧れを抱く。人は自分という一人の人間を、ただ無慈悲に愛してほしいと願う。そんな憧れをトリスタンとイズーは普遍ない愛の物語で教えてくれる。我々が心の底で秘かに欲していた愛の姿を見せてくれる。こういったトリスタンとイズー物語のような愛の叙事詩を、我々はどこかで、いつの間にか捨ててしまっているのだ。しかし物語に生きる二人には、誰かが捨ててしまった詩の一片を拾い渡してくれるような気がする。

 目を瞑るとたくさんの花と光の中で眠っている、二人の姿が目に浮かぶ。もし愛を目にできるものに表したら、きっとこの眠りにつく二人の姿になるのではないだろうか。

0 件のコメント:

コメントを投稿