2014年12月24日水曜日

美術を想う


  美術を想うと、私はゆりかごに揺られているような気持ちになる。汚れた心もすべてさらけだし、純粋無垢の赤子のように身をゆだねてしまう。

  まだ私が幼い頃に手にしたルノワールの画集には、画家のこんな言葉が記されていた。「世の中には悲しいことや辛いことがたくさんある。だから私は幸せな絵を描きたい」と。その言葉のとおり、彼の絵には溢れんばかりの幸福が描かれていた。豊かな色彩に、まばゆい光。美術に心を奪われた瞬間だった。あの時に感じた温もりの種が花を咲かせ、今こうして美術を想う導きとなったのだと思う。

  ルノワールは幸せの側面だけを描いたが、人間は幸せだけを見て生きてはいけない。どうこうしても、やはり世の中には幸せと悲しみが混在する。善と悪。光と影。対峙する両面を、美術は穏やかに、時に痛烈に示す。そして、そこにも入らない小さな日常のひとこまさえも、描き出してくれる。


  洞窟壁画の昔から、人類はあらゆる美を描いてきた。それらは、時と共に多様に変化し、さまざまな形で表象されている。それはまるで、『鳥獣人物戯画』の蛙と兎のように、あちらこちらに飛び回り、決して手におさまることはない。なぜなら、人間は表現することを止めないからだ。雪舟がこぼした涙で小さな鼠を描いたように、自己を、この世界を、描き出さずにはいられない。

  そして、美術の変化と同じように、私の心の模様がどのように変化しようとも、美術は、いつだって包み込んでくれた。純粋さも汚れも、すべて受け入れてくれた。そう、美術は私の慰めであった。私の帰する場所である。等伯の静寂に腰を下ろし、フェルメールの青に抱かれて、マティスの赤に恋をする。その世界にくるまって、私はいつまでも揺られていたいと思う。

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