2014年12月25日木曜日

アリストテレス 『詩学』



 悲劇に於いての苦難(パトス)から浄化(カタルシス)への一連の流れは、まず演じ手が装飾を纏いリアリズム的な外観を創造した上で、幾つかの出来事の組み合わせ、つまり節を劇的に組み合わせることにより果たすことができる行為の再現であって、そこには人物の性格は然程重要ではないとある。これらと現代のあらゆる諸芸術とを照らし合わせて考察してみると、そこに大きな違いが見えてくる。

近代の物語の様態はアリストテレスが述べる悲劇の構成要素の必要性とは大分違って、その世界を動かす主たる登場人物の性格に重きを置かれる傾向がある。例えばチャップリンが行う喜劇映画などの笑いの要素は、その大部分はチャップリンが演じる人物像のコミカルな性格に起因しているし、野田秀樹が演出する「パンドラの鐘」に於いては舞台に登場する多くの人物像にそれぞれ違ったユニークな特色が見られ、個々の人物が笑いを誘う身なりや発言を繰り返している。蜷川幸雄が演出した「パンドラの鐘」と比較して思い出すと、野田秀樹が演出した「パンドラの鐘」は物語のストーリーよりも個々の面白いキャラクターの方が印象深いことが判る。

悲劇の分野でも現代はやはり主体となる人物像がどれだけ観客に愛され、人物像の愛嬌効果によって如何にして観客の感情を揺さぶるかに重点が置かれているように思える。そうすると然程にわたって物語事態に揺さぶりをかけずに済んでしまう。つまり節と節の組み合わせに技巧を凝らさなくても大衆に受け入れられる悲劇が完成してしまうのだ。日本で人気のあるイギリスの悲劇の童話「フランダースの犬」は主人公の少年ネロとパトラッシュの純真さと直向さなどが結末の死と共に涙を誘うが、キャラクター自身の印象が濃ければ濃いほど、月日が経つにつれて次第に主体が物語から独立し、ネロやパトラッシュといった登場人物が、物語空間とは別の次元で愛されるようになる。このれは節と節の組み合わせの欠如ゆえに起こる現象なのだと思う。

しかしこれら現代の受け入れられる喜劇の様態は人々のカタルシスを導くことができない。詩学の第六章に書かれるこの文章。


同情と恐怖を引き起こすところの経過を介して、この種の一連の行為における苦難(パトス)の浄化(カタルシス)を果たそうとするところのものである。(29頁14行)


登場人物の性格が強く物語に浮き出ると観客は自分を物語内に投影しづらくなる。それは観客が物語を主人公のみが行う別次元の空間の出来事と捉え、自己投影することなく涙を誘うこととなるからだ。その結果、同情と恐怖は引き起こすことができるが、苦難(パトス)と浄化(カタルシス)の作用効果は排除されてしまう。一方ソポクレスの「オイディプス王」の登場する主人公オイディプス、その他の人物像にはこれといった強い人格性は見られない。「オイディプス王」の物語の世界観は、時代は異なるものの苦悩を体感する人間図式の形態は現代の我々と差異はない。故に物語全体を通して観客は苦悩(パトス)と浄化(カタルシス)を果たそうとする無意識下の行為が行われる。


何故ならば、悲劇とは人間を再現するものではなく、出来事のつながりとしての行為と人生とを再現するものなるがゆえであり、また、幸福も不幸も行為に在するため、再現の課題は何らかの行為なのであって、人間をあらわす道徳的性質なのではないから でもある。(31頁11行)


 節、性格、語法、思想、外観、音楽、これら要素が悲劇に多様性を導きだす。その組み合わせ次第で劇そのものが崇高なになるか陳腐になるか左右される。しかし上記に引用した文章を読むと悲劇の行為は登場人物の性格には起因するものではない。悲しみを帯びる過去のひとときの人生を甦らせるのは、主人公を苦しめる痛烈な出来事と、それを悪循環へ陥れる節の巧みな組み合わせである。その出来事の節々に観客は自己に起きた過去の出来事との対比を諮るのだ。悲劇、それを享受した際の観客の疑似体験によって自己に眠る既存の経験が意識化に浮上し再度苦難(パトス)を感じ、その苦しみからの脱却として浄化(カタルシス)を試みることができる。

 悲劇は人々に悲しみを味合わせるが、その悲しみ故に美しさはよりいっそう引き立つ。自己に起きた悲劇はなるべく心のどこかに埋めて隠し、そんなものなかったかのように振舞う。または目をそらし触れないようにするだろう。しかし劇によって与えられた悲劇は存在する悲しみの再確認を可能にして、傍観者であるからこそ、悲劇の中から未知の美しさを見出せる。そうやって我々は何度も悲劇を味わう。それは当事者では知ることのできない美しさだからだ。組み立てられた節と節により我々の中で行われるカタルシスは、外側で起こる外的な悲劇だからこそ成し遂げられる作用なのだと思う。

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