2014年2月24日月曜日

梅崎春生 『蜆』


  人を疑い、自分を疑い、混じり合うその二つに、道徳という男が信じて所有してきたものが、異臭を放ちながら重圧を加える。人間に対する欺瞞をどうにかして 脱ぎ取ろうと、男は初めて出会った男に外套を手渡す。しかし、それは男自身が自ら裏切ることとなる。他人に偽善で与えた外套、それは自分に凍え死ぬような 寒さと妬みを与えただけで、温かみや、満足は与えてくれなかった。真面目に生き、人間が築いてきた秩序と規則に忠実に従ってきた男が見たのは、人間同士が 互いの腹を探り、罵倒し、傷つけ合うものだった。誰かが不幸になることで、誰かが幸せを得る。男はそれを、揺らいでいた気持ちを外套で確認してしまったの だ。はっきりと。電車から落ちた男を想い、男は己の矛盾した、濁り始めた感情に冷たく笑う。男が所有していた外套は、己惚れであって、自分が潜在的に己に 備わっているものだと信じていたものだった。それは所詮「所有」するものでしかなく、いつでも売り払い、酒にだって変えられるものでしかないのだ。

 
私達は、皆、外套を着ている。けれどもそれは、偽物だということを欺くものになり得る。そんな人間に退屈し、飽きてしまう人もいるだろう。外套を脱ぎ捨て て、虚無心を代わりに身にまとうことだってできる。淋しく鳴く蜆は、男に幸福の総量を気がつかせた。けれども、その声にはもっとたくさんの、様々な醜悪的 な声以外の声も、存在すると思う。

 
外套を脱がずに、身にまとったまま、この世の中の偽物や醜悪に埋もれて、他の蜆と一緒に鳴いてみてはどうだろうか。外套は寒い夜には、温もりを与えてくれると思うから。

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